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ホタテバーガー☆ミ

ホタテバーガー☆ミ

元治2年(1865)慶応元年

元治2年(1865)慶応元年 31歳 

旧暦新暦天気出来事
1月    朝廷より新選組へ蛤御門の戦いでの戦功に感状賜る
1.8 2.3   「ぜんざい屋事件」土佐脱藩藩士田中光顕ら数名が昨年11月に大阪に入る。大阪市内焼き討ちを企む。ぜんざい屋に出入りしていた谷川辰蔵は谷三十郎の知り合いでこの計画を谷に密告、大坂駐屯の谷万太郎、谷三十郎、正木直太郎、高野十郎らぜんざい店石蔵屋を襲撃、土佐の大利鼎吉を斬殺
1.10 2.5   谷万太郎、石蔵屋の襲撃事件の報告書を提出
1.11 2.6   新選組、大阪天神橋に檄文を張り出す。
1.15 2.10  第一次長州征伐が停止
1.19 2.14  津藩士中村左馬、新選組屯所を訪れて大阪の情勢を聴取する
1.25 2.21  見廻組、兵庫で佐々木六角源氏太夫ら14名を翌日にわたって捕縛。
1.26 2.22  残党、大阪へ逃亡。
1.27 2.23  隊士約30名、大阪で源氏太夫の残党を襲い一人斬殺、23名を捕縛
2月    隊士の激増により(約70名)屯所の移設を考慮、西本願寺と折衝を始めるも、山南は反対
2月    幕府は老中松平伯耆守(ほうきのかみ)阿部豊後守に兵多数をつけて上洛させ慶喜の江戸帰還と容保、定敬の罷免、会津藩への給付停止を伝えるが二条関白以下公卿らの詰問で中止になる。幕府京都の軋轢が敵視になる
2.4 3.1   天狗党の首謀者らが処刑される
2.9 3.6   歳三、彦五郎宛手紙を記す。容保候が下向するのにお供したかったけど都に留まってくれといわれたって内容。
2.22 3.19小雨山南敬介脱走
2.23 3.20山南、大津で沖田に捕らえられ切腹。山崎烝、神崎一二三の手で光縁寺に埋葬される
2.24 3.21山南葬儀
2.28 3.25  西本願寺門跡使田中主鈴、新選組の屯所移転を了承する口上書を朝廷に提出する。
3.1 3.27  歳三、彦五郎宛手紙を記す。屯所を移転することと天狗党のことを書き送っている。
3.4 3.30  大谷良輔切腹
3.6 4.1   三条通の甲冑屋で押借を働く6名を捕縛
3.10 4.5   六条西本願寺北集会所へ屯所移転、堂宇、太鼓楼、文武館道場を使う。八木家に挨拶
3.20 4.15  福田内蔵之助、新選組より350両の借用依頼のうち200両の貸渡を了承
3.21 4.16  沖田、日野佐藤家に土方東下、山南死亡を報告
3.25頃 4.20  歳三、隊士募集のため、伊東、斎藤と江戸へ下る
3.26 4.21  新選組、祇園一帯での出火に出動
3.29 4.24  幕府、禁門の変以後続いていた「一会桑敵視政策」が将軍上洛を推し進める側の勝利により中止されこれ以後一会桑と江戸の関係が良好になる
3月    土佐浪士片岡源馬、十津川の中井庄五郎、京都四条大橋上で沖田総司らと斬りあう 朝廷より禁門の変の感状が下される。
4月    この頃会津藩は二条関白、中川宮邸へ多数藩士を派遣していた。宮家では警護のみならず家政全般を頼りきり、藩士は困惑していく。
4.4 4.28  土方、川崎宿泊
4.6 4.30  朝、彦五郎の元へ染屋(府中粕谷)から土方帰府の連絡がある。彦五郎逢いに行く。
4.7 5.1   【元治元年(1864)】 この日改元して慶応となる
4.7 5.1   彦五郎、松五郎、谷定次郎、多吉を伴い近藤方で土方と会う
4.8 5.2   土方、彦五郎の宿舎金子屋を訪ねる
4.9 5.3   土方、彦五郎の宿舎金子屋を訪ねる
4.10 5.4   土方、彦五郎ら3人、乗馬で帰宅
4.12 5.6 土方、日野で小島政則らと面談。佐藤家に逗留
4.14 5.8 土方、日野で小島鹿之助と面談。(橋本道助も?)
4.15 5.9 佐藤家で甥の源之助を新選組にスカウト、姉のぶの逆鱗にふれ断念(17日?)試衛館に戻る。途中内藤新宿の関所で役人を脅かす
4.16 5.10  江戸市中の昼夜の警護が庄内藩に一任される。
4.17 5.11  上平村(上平井、日出町)の東照宮拝礼に土方、彦五郎が行く。帰宅途中粟須村(八王子)へ立ち寄り、稽古する。
4.18 5.12  彦五郎・源之助と共に江戸へ戻る。この日、彦五郎方で、鹿之助と夜通し話をする
4.27 5.21土方・斉藤・伊藤、藤堂と合流し新入隊士53人を従えて江戸を出立
4月    西本願寺家来西村芳三郎(兼文)京都脱走人と偽って潜入した防長両国での探索書を一橋家に送る
5.9 6.2   歳三一行、草津本陣に宿泊。土方、斉藤、伊東、藤堂ら32名(田中本陣大福帳より)
5.10 6.3 大雨土方一行京都に到着
5.26 6.19  大坂の儒者藤井藍田を捕縛、大坂の万福寺へ
5月    新選組、大阪警備を命じられ数名が下坂
閏5.5 6.27  大阪の新選組、京橋で不審人物の検問を行う
閏5.11 7.3   京都松ヶ崎に潜伏の長州人を捕縛する
閏5.12 7.4   藤井藍田、大坂万福寺の獄で死去 幕府より新選組のその他の警備陣に持場の割付が行われる。 単内式部、矢野玄道ら5名を捕縛
閏5.13 7.5   将軍家茂を膳所において拉致もしくは地雷による爆殺を計画していた巣内式部(すのうち)らを捕縛
閏5.14 7.6   佐野七五三之助ら隊士、膳所大津に出張。河瀬太宰宅を捜査、妻こう自殺を図る
閏5.15 7.7   河瀬太宰ら3名捕縛
閏5.18 7.10  河内狭山藩士山本時次郎を捕縛
閏5.21 7.13  将軍家茂、陸路上洛途次の江州膳所において同藩士らの長州親初諌止の謀略あるのを探知し出動、一人捕縛するも伊東の助命嘆願により釈放する。徐々に伊東派の思想と土方らのそれと異質な事が浮き彫りになっていく
閏5.22 7.14曇雨家茂入洛に当たり新選組は三条蹴上に出迎え、二条城まで警護する。
閏5.23 7.15小雨西本願寺の屯所へ帰陣。近藤、木屋町の南部精一郎宅に宿泊している松本良順を訪ねる。
閏5.24 7.16  家茂の下坂に藤ノ森まで警護する
閏5.25 7.17  将軍の入京に三条蹴上まで出迎え、伏見街道藤ノ森まで護衛(二条城まで?)する。松本良順上洛、近藤と再会?
5下旬    新選組、隊規の更新と新編成を行う
局長:近藤勇
副長:土方歳三
参謀:伊東甲子太郎
組長:沖田、永倉、斉藤、松原、武田、井上、谷、藤堂、三木、原田
諸士調役兼監察:山崎、篠原、新井、芦屋昇、吉村、尾形俊太郎
勘定方:河合耆三郎、尾関、酒井、岸島
各隊には二人の伍長と五名の隊士が配置。
撃剣師範:沖田総司、池田小三郎、永倉新八、田中寅三、新井忠雄、吉村貫一郎、斉藤一
柔術師範:篠原泰之進、梁田佐太郎、松原忠司
文学師範:伊東、武田観柳斎、司馬良作、尾形俊太郎、毛内有之助
砲術師範:清原清、阿部十郎
馬術師範:安富才輔
槍術師範:谷三十郎
          平隊士100名
このとき「局中法度」制定との説もあり。
5月    日付不詳だが(20日前後か)松本良順西本願寺を訪れ衛生面での諸注意を土方に与える。
土方は2~3時間のうちに言われたとおりに病室、浴室を整え良順を驚かせた。また厨房の残飯を見て豚と鶏を飼育させ清潔を保ち、栄養を取ること説く。 山崎烝に縫合手術を教え臨時の救急法を学ばせる。
「我は新選組の医者なり」
良順曰く「歳三は鋭敏沈勇、百事をなす電のごとし。近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり。」
その後南部精一が一ヶ月ほど屯所への往診を行う
5月    井上謙三を捕縛するが、伊東の口添えによって放免する
5月    中西登、小路平三郎、石津茂一郎を醒ヶ井魚棚の旅館で捕縛
6月    隊士柴田彦三郎、市中で金策の上脱走。福知山から出石方面に向かったとの通報があり新選組は4人の隊士を追ってとして差し向ける。このとき人相書を作って役人に手配を依頼。
6.1 7.23  米価釣り上げの風聞により米問屋主人らを捕らえ、万福寺に連行
6.6 7.28  西四条家家来2名と屯所に連行するが放免
6.15 8.6   大阪新選組、五神社に対し目付方宿舎に集合の回状を届ける
6.16 8.7   朝、天満宮総代の大道吉儀、宿舎にて三木三郎と面談。
6.19 8.10  多気郡の村に宿を取っていた柴田、捕縛される。屯所まで護送して切腹。
6.21 8.12  施山多喜人、石川三郎両人、商家の婦女を犯して切腹
7.1 8.21  島田魁、英名録作成。134名
7.4 8.24  沖田総司、宮川音五郎宛に宮川信吉の無事伝達の書翰認める。 大阪某橋警備中の隊士、某藩士3名と口論の末、刃傷に及ぶ。
7月    伊東甲子太郎、篠原泰之進、富山弥兵衛、茨木司、粂部正親ら、奈良に潜伏する浪士探索のため出張。長州浪士石津茂一を捕縛するも、伊東の嘆願によって客分扱いとして留置
7.18 9.7   新選組脱走の上田末次、朝名を騙り名古屋で金策の報を受け東海道筋に伊東、中山道に島田が探索に当たる
7.22 9.11  大阪にいる井上松五郎に手紙を記す。残暑見舞い
7.25 9.14  佐野牧太、隊規違背につき断首
8.1 9.20  朝命を騙った上田の行方について、安藤領の者が匿ったということで、安藤藩詫び状を入れる
8.8 9.27  武田観柳斉ら、金品強奪の薩摩浪士捕縛のため蹴上奴茶屋へ出動
8.2610.15  小野路村の橋本道助に長男政清が誕生し土方は後日祝賀の漢詩を送る
9.1 10.20松原忠司自刃し光縁寺に埋葬される
9.8 10.27  長州藩主毛利敬親、薩摩藩主島津久光に手紙を送る。これで薩長連携の動きが決定的となる。
9.9 10.28  土方、近藤周斎、宮川総兵衛、ツネに手紙を記す。毎月4.9の日に調練してること、多摩の門人(近藤、沖田、井上、宮川信吉、大石、大谷勇雄、横倉甚五郎)の消息も伝えている 夜、堀川松原通にて巡察隊士、肥後藩士4人と口論の上屯所へ連行するが同藩士多数が押し寄せた為に引き渡す。
9.1611.4   将軍・家茂上洛
9.2111.9   朝廷より征長の勅許を得る
9月    第二次行軍録作成
局長:近藤勇
副長:土方歳三
軍奉行:伊東甲子太郎、武田観柳斉
小銃頭:沖田総司、永倉新八―伍長四人―平隊士
大銃頭:谷三十郎、藤堂平助―伍長一人―平隊士
槍頭:斉藤一、井上源三郎―伍長三人―平隊士
小荷駄奉行:原田左之助―伍長一人―平隊士
9月    新選組、壬生寺境内を調練場として借用を依頼 この月会津公用局秋月悌次郎蝦夷地へ左遷される
10月初    一会桑、孝明帝に幕府が結んだ通商条約を認めさせる
10.3 11.20  将軍家茂、江戸帰還のために下坂中、容保は帰還阻止のため枚方で諫言し帰京させる。近藤も枚方に赴き、家茂を警護して京都に戻る。(大阪万福寺?)
11.2 12.19  土方、周斎・宮川音五郎・粂次郎・彦五郎に手紙を記す。近藤の広島出張を伝えた手紙。
11.4 12.21近藤勇ら長州訊問使永井主水正(尚志)に随行して広島へ出張.近藤は名を内蔵助、武田観柳斉は近習、伊東は中小姓、尾形俊太郎は徒士として京を出立。他に山崎、吉村、芦谷登、新井忠雄、服部武雄。歳三局長代理。 出発に当たって近藤も佐藤・小島・粕谷家に宛てて覚悟の程を書き記す。「小子の宿願、歳三氏へとくと申し置き候間、(中略)剣流名、沖田へあい譲り申したく、このだん宜しくお心添え下されたくー」
11.7 12.24  近藤等、大阪を出立 尾関弥四郎病死
11.16 1.2   永井、近藤の一行広島に到着
11.20 1.6   長州訊問使、近藤らの長州入国を求めるが拒絶される
11.21 1.7   伊東の口添えによって出牢していた赤根武人ら3名間者として広島より長州に派遣される。
12.12 1.28  歳三、近藤らの広島出張を日野井上松五郎へ報ず。桜井勇之進を切腹させる
12.16 2.1   永井主水正広島を出立帰路に就くも、近藤らは残留して岩国辺に足を延ばして、長州の探索に赴く
12.22 2.7 薄曇帰京。報告の為会津藩を訪れる
12月    蝦夷地へ送られていた会津公用局秋月悌次郎京都に戻るよう通達される。
日付不詳    隊士、川島勝司富山弥兵衛に酒井兵庫脱走の罪で斬殺
      この年、京都守護職屋敷が完成。黒谷より移る

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